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東海電気鉄道電車コラム
このページでは、東海電気鉄道にてあった過去の出来事などに関する事を、インタビュー形式で掲載しています。内容は増えていく予定ではあります。
その1:新生東海電気鉄道としての再出発
東海電気鉄道が清算会社に移行した際、代表取締役社長の名は『代表清算人』となり、会社の事業は停止された。しかし、以降後すぐに代表清算人が交代した事をきっかけに、大どんでん返しになる事を誰が予測したでしょうか。前回の記事の続きとして、秋月社長にお話を伺いました。

登場:美住涼子(神崎テレビアナウンサー)
    秋月花梨(東海電気鉄道代表取締役社長)

■破たん前の規模拡大
東海電気鉄道は以前、静岡県は西伊豆方面へも路線を延ばしていました。静神線(現在の東静高速鉄道西伊豆線及び三島線)は東海電気鉄道で建設、沼津線は倒産した鉄道会社から買収して、着々と路線を延ばしていきました。車両も豪華な装備が施された新型車両を導入していました。

美住アナ
今も経営基盤は安定していて景気がいいと思いますが、この頃は非常に景気がよかったんじゃないですか?

秋月社長
まだ私が社長に就任する前で、父である秋月 孝仁が社長だった時代の話ですね。今になって考えてみますと、運行本数を増やしたりして運行効率化を図ることは勿論のこと、乗って得する鉄道を目指したかったのではないでしょうか。特に優等車両に連結した2階建て車両は、特別車両にして特別料金でも徴収すればよかったのではないかと考えてしまいます。当時の方針で、それをあえて特別な料金を取らずにご利用頂いたのは、お客様に日頃の感謝に対する『恩返し』の意味合いもきっとあったのではないでしょうか。今でも、この方針は守り続けています。
新型車両を導入した中でも、旧形車両だった1000形電車をずっと運行していたのはどうしてですか?
東海電気鉄道としての経営基盤の礎を築いた車両であったのと、朝夕ラッシュ時などの増発車両としての意味合いがあったのでしょう。それに、この電車は壊れやすかった反面で直しやすいこともあったからでしょう。実際には朝夕ラッシュ時以外でも普通電車として走っていました。まさか、後の経営再建などのカギを握っていたのもこの車両だとは当時思いませんでしたね。
何より驚いたのは、新型車両に混じって、旧型車3200形および3100形を導入したことなのですが、それはどうしてでしょうか?
この車両は微妙な点が多いのですが、第一に社長がこの電車が好きだったからでしょう(笑)。それにJR東日本さんの方で同時期に大量に廃車されていたこともあって導入費用もさほどかからなかったこともあるでしょう。JRで使わなくなったのであれば、うちで買って、長く大切に使おうという意味合いも会ったのではないでしょうか。古い車両ではありながらも車体は丈夫で、多少の無理は結構利いたそうなので、整備面でも運転面でも1000形とほぼ共通の使いやすさだったのではないでしょうか。或いは動態保存の意味もあったのでしょう。
■社長不在、社長代行(常務取締役)によって巨額横領事件が起きる。

△再建の際して重要な意味を担った1000形電車

会社の経営状態がまだ順風満帆だった頃に社長が不在となり突如として、社長代行に就任した常務取締役がいました。
その常務は、社長に就任してから3ヶ月した後に自身と関係のあった不動産会社と『闇の売買契約』を交わしました。それは東海電気鉄道の(当時)本社ビルであるTER-CCCターミナルビルのテナント全撤退と当該ビルの建物・土地の売却である。この時に本社機能を旧秋月邸へ移転するなどして、何とかその場を凌いでいた。
その後、今度は知り合いが仲介して別の鉄道会社と『闇の売買契約』を取り交わし、鉄道事業の大看板であった新型車両が不正に売却されてしまった。それによって支払われた代金は会社には入らず、常務取締役の懐に納まってしまった。鉄道車両が不正に売却されたことに気づいたのは、担当の運転士が運転区庁舎にあった電車のハンドルのうち、新型車両のが消えていることに気づいたときだった。後に車両が搬出されてしまって事件が公になった時には後の祭。経営再建すらも危ういという状態にまで陥った。
残ったのは鉄道設備と古い電車に、返済し切れていない莫大な借入金と、ギリギリの資金繰りでもクリアするのが難しいくらい追徴課税された税金であった。
常務取締役だった人物が社長代行に就任した時から経営不振に陥っていたものとされていますが、本社移転などは必然的なものだったのでしょうか??
その頃の経営状態としては黒字の状態であり、少し改善すれば簡単に立て直せるような状態でした。本社の移転などは突如として社長代行(高岡定男常務取締役)の口から告げられました。当然、それらの名義は本来の社長である秋月孝仁のものでした。代書として済まされてしまったことなどに味を占めたのでしょう。代行とはいっても、実質的に社長の権限を持っていたのですが、書類を取締役会などに通して決定する事は難しいはずでした。しかし、実質のところを見れば、取締役として名の挙がっていたほとんどの人物が高岡側に買収されていたので、どっちみち高岡の筋書き通りに進んだのでしょう。そのおかげで、東海電気鉄道は自力での経営再建まで危うくなったのと同時に、責任を秋月側に取らせようとしたのです。やはり書面の名義が物を言わせる行為の仇なのでしょう。
とんでもないとばっちりをくらったのですね。しかしながら、社長のお父上である当時の秋月社長はその事実を知っていたのですか?
一応、取締役の一人として私が社内にいましたが、この事実は父の孝仁には伝わっておらず、私が口で伝えたことをきっかけに知ったと思います。ただ、そのときは病の床に伏せておられたので、既に復帰できる状態ではなかったのも事実です。何より、父は高岡社長代行を信用していましたから、余計に裏切られたことが悔しかったのでしょう。彼が東海電気鉄道を清算会社に移行すると発言した時にといったら、社員の怒り様は凄まじいものでした。何より、電車の利用客は少ないわけではありませんし、売約されて動かせなくなっていた車両を尻目に動かせる少数の電車で何とかやりくりしていたのでなおさらでしょう。
清算会社にされてから、いかに復帰する努力をなさったのですか?
まずは取締役会の了承を取り付けて、高岡社長代行を完全に退陣させることが最初の課題でした。既に代行の職務にいる気がなかった高岡がすぐに退職届を出し、後に逮捕されたことから、私が社長に就任する事は案外簡単に進みました。それだけは上手くいきましたが、運転資金も底がつくような状態で、銀行からの融資も受けられない。清算会社移行を撤回してから、いかにして会社再建をするかが重要な課題でした。自社だけで再建するのは到底出来るものではありませんでしたから、外部からの援助を取り付ける必要があったのです。必然的に、東静高速鉄道(当時)の本社へと出向き、援助のお願いをしたわけです。その東静高速鉄道の社長というのが、私の妹だったというのだからおかしいですね。
ものすごい偶然が重なったのですね。
既に、私が社長という事になっていましたから話をするのは簡単でした。会社支援の第一条件だったのが、東海電気鉄道沼津支社管内の鉄道路線全ての譲渡でした。東静高速鉄道は既に南條駅から東伊豆線を通して下田方面に路線を通していました。線路こそつながっていたのですが、南條〜三島間は競合していたのでそれを回避する必要はあったでしょう。そのために『静岡東海鉄道』という第三種鉄道事業者を共同で立ち上げたうえで路線を共同使用にしたのです。その路線の運行免許を持っていた会社の清算を行って、東静高速鉄道の直営路線にして飛び地となっている東伊豆線を直営路線でつなげる事が出来るというメリットもあったため、そういう条件をつけたのでしょう。それ以前に条件付ながらも支援する内容を提示してくれたことは本当に『渡りに船』という感じでした。
■会社再建までの道

△復興の象徴となった新1000形先頭車(Tc1001号車)

東静高速鉄道からの支援を受けるとはいえ、単独での再建だけはできない状態でした。そのため、東静高速鉄道(当時)の連結子会社として再出発する事となりました。鉄道は旧形電車(旧1000形,3200形,3100形,4000形)しか残っておらず、自社線内の運用を何とか賄い、直通列車の場合は東静高速鉄道の車両が片乗り入れする形をとってもらうこととなりました。借入金などの返済を行うため、赤字を多く計上した路線バス事業にメスを入れることとなったが、そのあたりでも大きな問題となりました。
東静高速鉄道傘下になったとはいえ、経営を再建するためには相当の時間を要したのではないですか?
そうですね。でも、電車を止めるわけにはいきませんから必死でした。残った電車は老朽化が進んでおり、改修工事を行いながら運行していました。幸いなことに大きな故障をしなかったのが大きな救いでした。しかしながら、全盛期のように優等列車の運行は出来ませんから全列車を各駅停車でしか運行できず、特に春菜線のお客様にはご迷惑をおかけいたしました。基本的に車両数が足りなかったために複数の編成を連結する事が出来ずに、各駅では『積み残し』の乗客が多く発生してしまいました。何とか4000形電車の都合をつけてダイヤを調整するなどして快速列車の運転を開始するなど、何とか乗客の皆様が電車に乗れるように対応策を考えることが、鉄道事業部にとっては大きな仕事となりました。会社が経営不振に陥った時よりは幾分か改善はしたものの、電車に対する信頼性は揺らいだのも事実でしょう。あれから、電車の増車を行って近代化を再び図って、経営不振に陥る前の段階に戻すのには相当な時間がかかりました。
一方では、路線バスの大規模な路線縮小をお考えになったそうですが…。
経営再建以前から、随時検討していたことですね。それにしても、青葉台営業所及び管轄の路線バスのほぼ全線を廃止するという計画を自動車部が出すとは思いもしませんでした。確かにその方が再建するのに手っ取り早いですが、肝心の沿線住民の意向をまったく無視した計画でしたので、却下するように言いました。しかしながら、その提案が通ってしまったうえに『身内同士』での睨み合いも起こってしまったため、最終的には青葉台営業所に当時所属していた職員十数名を中心に、新たにバス会社『青葉台交通』を設立するなどして、独自に路線継続に向けた動きを行っておりました。ここでも、多くの乗客の皆様にご迷惑をおかけしてしまったため、利用客数が落ち込んでいきました。一方では、青葉台方面のバス路線(青葉台交通)の方は『わが町の路線バス』として多くの皆様にご乗車いただけるようになったそうです。その後、青葉台交通は東海電気鉄道の子会社から東静高速鉄道傘下の子会社となりました。少なくとも、東海電気鉄道の路線バスは、青葉台交通の路線バスに学ぶ箇所は結構多いのでしょうね。
経営再建に伴う対策で苦労した箇所は何ですか?
とにかく、運転資金の到達ですね。前述のとおりに銀行からの融資も受けられない状態でしたし、とにかく背負った借金は返済しなければならない。施設面にはほとんど資金を回せなかったために改善も施せず、機器の老朽化は様々な問題を招いたかと思います。幸いなことに親会社である当時の東静高速鉄道に静岡県内の路線に関する施設などは全部売却できたため、それらの資金を元手に出来た部分も強かったです。おかげで経営再建も思った以上に進み、本社ビルであった旧TER-CCCターミナルビルの買戻しや、それに伴って本社を再移転して、ほぼ全面的に神崎県部分に関しては経営不振前の状態にまで戻せました。
経営再建に伴って、1000形などの旧形車両の処遇をどうしたのですか?
経営再建にいたっては、大変な功績を残してくれた(旧)1000形電車でしたが、いたるところで不具合が出てきました。それでも騙し騙し使ってまいりましたが、やはり無理をさせすぎたために故障も頻発してしまったために老朽化が乏しい編成から順次廃車する事を決めました。これに関しても譲渡の要望は出てはおりましたが、それらは丁重にお断りして、長年の活躍に感謝しながらも『眠らせる』事にしたのです。しかしながら、その勇姿が永遠に見られなくなるのは辛いという沿線住民などの要望にこたえる形で全40両のうち5両(1編成+先頭車1両)の保存を決定して、1編成は車両基地に静態保存し、1両は記念公園での静態保存としました。急行形4000形については近代化を図って全10編成のうち7編成は番号を流用する形で置換えましたが、3編成のみは状態もよいためにそのまま残り、新4000形とともに活躍しています。3200形及び3100形は現在でも全編成が健在です。
ありがとうございました。最後に、東海電気鉄道を今後どういう会社にしていきたいですか?
今まで以上に、神崎県民の皆様をはじめとして、当社の電車及び路線バスをご利用くださっている皆様にずっと愛される、より身近な存在の交通事業者として発展していきたいと考えております。
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